楓さん(2007年生、福島出身)スピーチ:2025/3/8 バイバイ原発3・8きょうと

私は京都で避難生活を送る17歳です。3歳で被災したため、福島にいた頃の記憶をもたないまま今に至ります。これまで、家族や脱原発の活動を行う方々に話を聴くことで、当時に思いを馳せてきました。
私の人生は、原発事故とともにあります。これが環境・エネルギーの問題だけでなく、人権の問題であることに気づいてから、私の目は多くのものを映してきました。
震災後初めて福島に戻ったのは、避難してから8年が経った、小学6年生の冬でした。想像以上に前へ進んでいた福島の街と人々を見て、ひとり取り残されたような気がしました。ずっと外にいたため気づきにくかった、〝 フクシマ〟は永遠の被害者としてパッケージングされている、という感覚が一周回って襲ってきたのです。この乖離は、福島の復興の実態と同じものです。どちらも当事者そっちのけで進められる、形ばかりのものであると言わざるを得ません。新しい建物が並んでいるけれど、いつも曇り空のように見える街。人がおらず、線量が高いままなのにすごく綺麗な浜通りの自然。私自身の心の復興はまだ追いついていません。国は、〝 フクシマ〟を過去のものにしておきながら、何を未来に押し付けようとしているのでしょうか。福島はこれからも歩み続けますが、その役割を絶対化するのではなく、構造の中で相対化する視点が必要であるということを今一度訴えたいです。この構造が可能にする人権意識が温存され続ける限り、原発事故は終わらないのですから。
つい3ヶ月前、原発賠償京都訴訟において、国の責任を認めない不当判決が下されました。原告として10年以上闘う中で、私が積み重ねてきたのは、この国は私の人権を守らないのかという怒り。権利が権力によってないがしろにされるこの現実は、誰にとっても無関係ではありません。「なぜ今もこのような思いをしなければいけないのか」、「なぜそのような論理がまかり通るのか」ということばかり、本当に理解を超える現実が突きつけられているのです。責任の所在と見えにくい人々の存在を明らかにし、私たちは権利を追求していかなければなりません。底の抜けた司法に「認めていただく」形式であることがすごくすごく腹立たしいですが、この闘いには、国と司法の人権意識をただす役割があると思ってやっていきたいと思います。
核には、大きな力があります。命を蝕み、殺す力。人に金と権力をもたらし、搾取構造を生む力。自然やそこに生きるものたちを破壊する力。土地との結びつきを回復するのが容易でないほどの。人と人とを引き離す力。そして、結び合わせる力。これらは、とても大きな力です。悪いことも、奇跡のようなことも、全て原子力、核によってもたらされた。核には、運命を変えるほどの力があります。
人類は、核との共存を拒まなければいつか飲み込まれてしまうでしょう。生きることの対極にあるこの力、原発も決して平和利用などではありません。死のエネルギーを消費しておきながら、私たちは希望ある生活をおくれるでしょうか。勝手に生み出し、良い結果が出たら権威に利用する。悪い結果の責任は取らず、コントロールが及ばない所は切り捨てる。何もアンダーコントロールではない力の前で、このような傲慢がいつの時代も人間性を失わせてきました。
どこであれ、どんな形であれ、私は核を使おうとする動きに断固反対します。災害は避けられませんが、核による暴力は抑止できます。これは、止められることなのです。
私たちには、声を上げる権利があります。そして、私たちの声には力があります。みなが一人分より少し広い想像力をもって、一日でも早く脱原発、ひいては核廃絶を実現できるように行動していきましょう。結集すれば、私たちの力は、核の力、不当な力より強いと信じて。